[1] ゴースト・イン・レイン







それはあまりにも突然で、あまりにも残酷な事だった。
 たった一瞬の出来事。身体が吹き飛ぶほどの爆風と昏倒するほどの鋭い光。再び目を開けたときは、そこは、日常からかけ離れた地獄だった。



 どうして、とは言わない。

 理由なんてあってもなくても同じだから。

 だけど、俺は誓った。





――――この命を懸けて、絶対に報復してやる






                 [1]   ゴースト・イン・レイン

 北アイルランド。いまだテロが絶えないと言えど、全ての人間がテロに怯え暮らしているわけではない。テロは謂わば突如訪れる天災みたいなもの。それを意識しようがしないが、毎日平凡な日々は繰り返す。
 ニール・ディランディは経費削減のためと学校での弁当を日が昇る前から作っていた。
 亜麻色のゆるくカーブした髪から覗く雪のような肌。めぐるましく動くその瞳は爽やかなエメラルドグリーン。優しげなその相貌は、綺麗に笑えば見るもの全てを虜に出来るだろう。
 いくつか具材を切り炒めていると、上の階からドタドタと慌しい足音が聞こえてきた。
「やっば、寝坊した」
 気ノブのドアが開くと、ニールと全く瓜二つの少年が姿を見せた。
「最後の最後まで寝過ごすのな、ライルは」
 苦笑交じりにニールが返すと、ライルは苦虫を噛み潰したような顔をし、慌しく洗面所へ向かって行った。
「最後の最後、か」
「なんか言ったー?」
「なんでもねえよ、それよりさっさと飯食えー」
 ニールの声に呼び戻されるように、髪を整えたライルが顔を出す。しかしもともと癖毛なのと雑な性格とでただ頭から水を浴びた状態だけになっている。
「ライル、風邪引くぞ」
弁当を詰め終わったニールは片方だけ紙の弁当箱なのを、どこか淋しそうに笑って卵を手にした。

 慣れた手つきで2つに割る。ジュワ、と音がして白身が色づいた。
「あのさ、ライル」
「んー?」
 濡れた髪の上から櫛を梳きながら、ライルは相槌を打つ。
「本当に、イギリスの学校に行くのか?」
「あったりまえじゃん!」
 今更といった風にライルは目を丸くした。
 入学当初から勉学に優秀だったライルはついに努力が認められ、イギリスの大学へと飛び級入学することが決まった。当然彼は寮に入る。今日作っている弁当も彼のは電車の中で食べれるような素材を使った。大方のものは宅配で送ったと言えど、玄関に積まれた荷物はほとんどがライルの物でニールの荷物は学校指定の鞄とザックくらいだ。
「教授の話じゃ夏休みもほとんど研究みたいな事言ってたし、兄さんの飯を食えるのもこれで最後かなぁ」

 そういいつつ皿の上のウインナーを摘む。
「まあ、お前がしっかりやってくれれば、俺はそれで満足だけどな」
「なんか兄さん婆臭いぞ」
「……せめて爺臭いだろ。ま、これでお前の将来も安泰かなー。しっかり俺を養ってくれよ」
「自分の食い扶持は自分で稼げ」
「ひっど。傷ついた」
 エプロンの裾を持ってなく真似をすると、ライルは軽快に笑って、席に付いた。
 丁度目玉焼きのタイマーが音を立てる。蓋を開けると、見事な黄色と白の分け目がくっきりと出来、これからの生活に良い兆しが見えた気がした。



 賑わう街中から一歩入った路地にその少年はいた。
 骸骨のようにやせ細った頬。身体はかなりの小柄でまだ年端もいっていない事がすぐわかる。
 血の様な真っ赤な目だけを煌かせ、少年は気配を研ぎ澄まして座り込んでいた。

 ふーっ、ふーっ。


 鼓膜まで突き刺さるような呼吸。まるで獣みたいに前だけを見、時度起こる微かな物音大きく肩を震わせた。
 彼は逃亡者だった。居場所を追われ、逃げるように船に乗った。逃亡は、成功した。しかしいつまでも視線が拭えない。見られている、じっと、ねっとりとした視線で。愚かな猫が愚かな行動をした様子を、ずっとあの男が見ている。
 ここにいては駄目だ。少年は震える足を鼓舞し、懸命に立ち上がる。北国には似ても似つかわしくない、むしろ服というより布といった方が相応しいくらい、少年は薄着だった。
 カタカタと足が震える。もう手の先に感覚はない。
 ただ、逃げなければという執念だけで彼は立ち上がった。

 逃げて、どうする。

 逃げて、どこに行く。

 そんな問は今の彼には通用しない。
 ただ、ただ背に迫る気配から逃れるために、彼は歩き出した。



「う〜、一雨来そうだな」
 どんよりと曇った空を見上げ、ニールは足早に校舎を後にした。この国ではいきなり雨が降ることは珍しくない。スコールもざらに起こるので、ニールは鞄の中にある折り畳み傘をチェックした。
「イギリスも、雨が降るのかな」
 ふと口を突いて出た言葉に、思わずため息を吐いた。
 朝からライルの事が頭を離れない。今までいつも一緒にいた兄弟が、離れて言ったのはいつの頃からだろうか。
 妹と両親を失って、ニールにとってライルはかけがえのない存在だった。長男の自分がしっかりしなければ、ライルを守らなければ。そう思って今まで来た。
しかし、
『俺、来月からこの家を出るから』
 ライルが頭がいいのは知っていた。教授に気に入られているのも。しかし、いきなりそう告げられ、ニールは二の句が?げなかった。
 今、なんて言った?
 間抜けにもそう聞き返したニールに、彼はようやく大学への進学のことを告げたのだ。
 嬉しいと思う前に、何故、と思ってしまった。
 何故、相談されなかったんだろう、と。
 笑顔を貼り付けて祝いの言葉を言うと、彼はただ、うん、と言った。
 ぽつり、と頬に水滴が落ちる。一粒落ちると堰を切ったように雨粒が地上へと降り注いだ。
 慌てて軒下に駆け込む。憂鬱な気分で傘をさす。再び歩き出すと、傘を伝って雨が滝のように流れた。
 雨に誘われたように重い気持ちが胸に込み上げてくる。
 家に帰る気にもならず、立ち止まって空を見上げた。ニールの気持ちを代弁するかのように、暑い雲に覆われている空。
「いっそ晴れてれば気も晴れるんだけどな……」
 あのバイトもないし、シューティングセンターにでも行こうかと前を向くと、ふらりと歩を進めてくる一人の少年が見えた。
 この雨の中傘もささず、冬のアイルランドにあるまじき薄着で、まるで幽霊のように覚束ない足取りでふらり、ふらりと左右に揺れる。今にも倒れそうになると、頭を振って足を動かす。ニールの背中に思わず戦慄が走った。
 瞬きをすることも忘れ、その場に立ち止まる。
 その子供はいくらか咳をすると、肩を震わせて口を押さえた。呼吸器が異常な音を立てる。ゴフ、と唾液と共に空気を吐き出すと、虚ろな目で前を見た。
「……やく」
 しきりに後ろを気にしている。足を擦りながら辛うじて動いていた身体は、ニールの隣まで来ると音を立てて崩れ落ちた。
「ちょ、おい!」
 倒れた音で我に返る。抱き起こすとかくん、と首が落ちる。
「おい! しっかりしろ!」
 冷たく冷え切った少年の身体は異常に軽く、存在感がなかった。微かに上下する薄い胸板は、時々引き攣る。ヒュー、ヒューと肺が異常な音を立てる。素人のニールの目から見ても、この少年は危ないと思えた。

――死

 その言葉がニールの脳に浮かび上がった。と、同時に言い知れぬ怒りが胸を焼く。
 いても立ってもいられず、ニールは少年を抱えて駆け出した。


    Continued..